あの日

ありがとうな毎日 seeding of the happiness

昭和20年8月6日 広島のある町で・・

~広島市内・某所(中区の相生橋から約△km付近)

午前8時頃。今日は気持ち良い青空。

今から洗濯物を干すところ。

息子はまだ赤ん坊なので、

目が届くよう縁側に寝かせた。

すやすや気持ちよさそうに眠っている。

洗濯物を一つずつ物干し竿に干していき、

やれ、終わった・・とひと息ついた時。

閃光。あたりは真っ白の光に包まれた。

何も見えない。・・と思ったと同時に

ものすごい風が吹いた。

台風より強く感じる風。熱い。

あわてて母屋へ走っていく。

窓ガラスは全て割れ、粉々になった破片が

あらゆる所に突き刺さり、足の踏み場もない。

縁側にいた幼い息子の顔や体にもガラスが。

無我夢中で破片を取り除く。

その後のことはよく覚えていない。

~広島県の小さな田舎町~

畑仕事に休みはない。

今日も朝から鍬をふるう。

良い天気。雲ひとつない青空。

ふぅ・・と曲げていた腰を上げ、

遠く、南の空を見上げる。

と、不思議な光景が目に入った。

きのこのような形をした不気味な雲が

もくもくと、広島市内上空に立ち上っている。

それから数時間後。

担架にのせられた怪我人が

次々と運ばれてくるのが見えた。

道の奥にある病院へ向かっている様子。

こんな田舎では珍しい事だ、と思った。

一体何があったのか・・。

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昭和20年8月6日、快晴の広島。

米軍の合わせた投下目標は、

広島市中区の相生橋(あいおいばし)。

広島の人なら誰でも馴染み深い、

広島市中心部を流れる”太田川”

にかかる橋だ。

広島市内は父の実家、

広島県の田舎町は母の実家。

最初の2つの場面は、

それぞれの「あの日」について

私が聞いた話。

小学生の時、

学校で家族や親戚に被爆体験を聞く、

という宿題が出た。

父は確か赤ちゃんだったはず。

やはり何にも覚えていないという。

近くに住む父方の祖母に、

話を聞きに行った。

帰宅して父のおでこを見ると、

祖母の話通り、1cmくらいの傷がある。

大きいガラスの破片が刺さった跡だ。

目立った傷はこれだけ。

あとは目を凝らして父の顔を見ても

何も残っていない。

農業を営む母方の祖父母の家へは

毎年夏休みに遊びに行っていた。

そのとき原爆の日の話を聞いた。

戦時中の話も色々、

穏やかに淡々と話してくれた。

が、きっと、

思い出すのもつらい事だったろう。

父方の祖母が何度も繰り返していた

”大和魂”という言葉。

小学生の私にはどこか大げさに聞こえ、

よく意味も分からず、気持ちのこもった

相槌も打てなかったと思う。

祖母に申し訳ない。

戦時下の日本人・・戦地に向かう人、

身内を戦地に送った人、銃後を守り

自らが出来ることを懸命にした人・・

みなで助け合い、心をひとつにして、

国難をのりきった。

それが祖母の言っていた”大和魂”だと今、

感じている。

ありがとうな毎日 seeding of the happiness

原爆投下後、数十年は、

草木も生えないといわれた広島の地。

だがその予想は外れ、

半年後には草が生えたという。

芽吹き、咲き、木々が繁り、

緑多きまちが再びよみがえった。

その地に私は生を受けた。

そして今もこうして生かされている。

必要なことは先人の姿の中にある。

私たちの先祖代々が渡してくれた、

命のバトン。

やわじゃない、

必ず立ち上がることができる、

強い心と体のDNA。

厳しい状況の中でも、

そのDNAを信じて、

できること・対策を自分なりに

せいいっぱい講じたら、

あとは心明るく生きていこうと思う。

原爆、震災・・

「あの日」を忘れることなく、

心に抱いて。