すべてを愛したらいい ~本気なんです~

生きていると、本当に
いろんなことがありますよね。

平穏無事に生きていこうと
思っていても、

突然、荒波に飛び込むことに
なったり、病気になったり、
思いもよらない方へ走り出す
ことになったり。

それが、
今までの自分の人生を根底から
見直すきっかけ、転機になります。

ひとりでいてもそうですが、
特に何かや誰かとの出会いもそう。

出会い前と出会い後では、
自分が自分でありながら、全然違う。

もうそれは後戻りできない流れに
のったようなもの。

自分を変える、というより
目覚めさせ、本来の自分に戻る、
魂の目的に沿った生き方を
選択せざるを得なくなる、という
感じがします。

出会いによって、
何かを好きになったら。

それに没頭したり、購入したり、
時間やお金をかけて「自分のもの」
にしようとすると思います。

目に見えるもの(物質)、
見えないもの(技術など)両方で。

でももしそれが「人」だったら。
あなたはどうしますか。
「自分のもの」にしますか。

自分のもの、という言い方は
語弊があるかもしれません。

本来、人は誰のものでもなく、
その人自身のもの、だから。

親子でも、恋人でも、夫婦でも。
例外はありません。

その、自由と価値を尊重した
ひとりの人間同志が出会い、
好きになった場合のお話です。

—–

好きになるということは、
大勢の中からその人を選んでいる、
ということに他なりません。

それだけ自分にとって必要な人
なのです。

理由が分かる場合もありますが、
これだと多くは打算の要素もある
気がします。
(判断は各人の自由です)
(三次元での制約や条件は
これからの話では省きますね。
気持ちにのみフォーカスします。)

理由は分からないけど好き。
そしてこんなにも現実的には
難しい要素や条件がありながら、
それでも好き。

という場合に、
さて、人は人を想うことを
諦められるのか。
その愛をとめることができるのか。
・・・ということについて、
考えてみたいと思います。

—–

結論から言うと、
愛することをとめることは
できません。
しなくていいんです。
愛したいだけ愛しましょう。

自分の愛をとめることは
苦痛を伴います。

愛されたいという気持ちより、
愛したいという気持ちの方が
はるかに強いというのが
人の本質なんじゃないかと思います。

愛するという状態は
あり方や態度です。

ただ、愛すればいい。
見返りを求めることなく。

見返りがあるとしたら、
こんなにも愛させてくれる存在に
出会えたということ。
この出会いが見返りです。

だから、出会えただけですでに
100%の恩恵を得ているのです。

愛するからこうしてほしい、
愛するからこうするべきだ、
というのはコントロールでしかなく、
「愛している」という思い込みを
条件付きで押し付けているだけです。

愛しているなら、
その人がどこでなにをしようと、
誰といようと、その人の自由を
尊重できます。

その人の選択を尊重できます。
その人がその人らしくあるがままで
いる状態を尊重できます。

そう、愛しているということは
どこまでもまるごと、そのままの
その人を認めて受け入れることです。

それができたら苦労はない。
そう思いますか。

たしかにそうかもしれません。

では訊いてみます。

あなたは、その人の幸せとは
なんだと思いますか。

もしそれが分からないなら、
自分の幸せってなんでしょうか。

その人とどうなったら
幸せなんでしょうか。

そこで出た答えを、
どうしてそう思うのか、
本当にそうか、など
掘り下げてみます。

そうすると、大抵は
自分のことしか考えてなかったり、
過去の承認にすがりついていたり、
押し付けていたり、ということが
出てくるかと思います。

いいんです。
私もそうでしたし、
みんなそうなので。

そこからさらに、
何かが足りない気がするなら、
自分はどうしてほしいのか、
どうだったら幸せなのか、
ということを感じてみてください。

頭で考えているようで、
心で感じてみてください。

私ならどうするだろうか、と
考えてみたところ、
誰かといて、その人といて、
ほっとするあたたかな何かを感じたくて
生きているような気がする、
というところまできました。

じゃあ、
それはどうしたらそうなれるのか。と
いうことを考えた時に出てきたのが、
「ただ生きている私を受け入れてほしい」
でした。

おいおいおい、こらこらこら、と(笑)

ポンコツでおっちょこちょいで
論理的思考が苦手で、いつもまわりに
助けられている私が言うか、と。
厚かましくはないですか。
ずーずーしくはないですか。
拒絶されるかもですがそれでも望む?
などと、自分ツッコミが入ります。

でもでもね、そうなんだもん。
仕方ないです。

それが望みで幸せであるなら、
きっと相手にとっても
そうなんじゃないかなと思ったんです。

これを実現させるために、
まずは自分がそれを自分にしてあげる、
ということがスタートになります。

外に求めるよりも内に。
自分がそれをできて、初めて、
誰かを認めることができるんです。

誰かに認めてもらう前に
自分が自分を認める。
嫌でも見たくなくても、ダメダメでも。
そんな自分をまずは認める。

そしてこれができたなら、
誰かにも認めてもらえるようなんです。

*もしかしたら逆もあるかも。
まわりの人をあるがまま認められて
自分のことも認められる、
というような。それもいいですよね。

「あなたが認めたあなた」が
好きになった「その人」を
見てください。

その人がただ、
そこにいてくれるだけで、
生きていてくれるだけで、
嬉しくなってきませんか。

たとえはなれていても。
たとえすぐには会えなくても。
たとえ連絡がとれなくても。
たとえ誰かといても。
知らない何をしていても。

その人がその人として生きている。
笑っている。楽しそうにしている。
それだけでいい。
そう思えませんか。

—–

人は愛するために生まれてきた。
自分を、パートナーを、我が子を、
世界を。すべてを。

すべての中にいる、
たったひとりのその人を。

そうしたら、
その人のまわりにいる、
その人を慕う人、その人に関わる人、
その人を支えている人々のことも
愛することができるのでは
ないでしょうか。

いない方がいい人っていなくて。
まわりの人も、関わる人全員が、
自分とその人の人生を構成する
登場人物なんですよね。

そこで思うことからも、
必ず学びがあります。

大丈夫。
その人をただ愛しているあなたは、
その人から愛されています。
最初から特別扱い、別格、
なんだと思います(きっと、ね)。

もし、お互いがずっと好き、
愛するのをとめられない、
ということであれば、
そういうことじゃないかなーと。

その上で、すべてを愛する。
愛したいなーと思うんです。

何を言っておるんだね、と。

そんなの理想論、
荒唐無稽で浮世離れした理想論だ、
と言われるかもしれません。

でもでもね、本気なんです。
すべてを愛したらいい。

・・・とか、アホちゃう?
無理でしょーが、と。
言われてしまうかもしれません。

なんとでもお言い(笑)

だってさー、その方が楽しいよ。
その方がきっと自分にとっても
その人にとってもいいんだもん。
世界にとってもいいんだもん。

自分を幸せにする!と
本気で決めて考えたら、
自分もその人もまるごと認めて愛する。
関わる人達も愛する。

という結論になっちゃったんだから、
仕方ない。

これどうぞ、と私はここに
この結論を差し出します。
そっと置いてみます。
ね^^

 


とはいえ、神ならぬ身。ポンコツの私ですから、とっちらかることもあります。凹んで寝込むことも(というかひたすら寝る)。でもそこから復活するには自分で自分に向き合うしかなくて。(無理な場合は、誰かに協力願いましょう)
恋愛も含めた人間関係において、相手の発言に対して「は?どーいう意味??」って思ったり、不安になることがあっても、相手に確認できない限り分からないし、そう感じてしまうのは自分の内面、心に原因がある場合がほとんどです。過去の古傷がうずいてるんですよね、きっと。
これを癒すなりして解決できてないと、たとえ相手から真相を聞けても信じられない、愛を受け取れない、ということになりそうだし、愛に気づかないということも(私これよくあって。後で気づくとか。おっちょこちょい&抜けてるので)。
だから、アワアワしてもOK。そこからしっかり自分の感情を感じて、内面を見つめていけばいいと思うんです。なぜそう感じるのか、本当にそうなのか。真相が分からないなら・・・というより究極、真相はどうでもいいんじゃないかと。自分の解釈なんです。それ次第で目の前の世界はできているので。
そうすると、制約や思い込みなどの余計なものをすべて取り払った、純粋な自分の気持ちに気づけます。一番大切な気持ちに。
だから今までのことすべて、一見いやなこと、悲しい(と思う)ことにも意味があった、んです。それがあったからこそ気づけた、学べたのだから。
大丈夫。大丈夫なんです、すべて。そうは思えない、そう思えそうだけどあと一歩、という方。私から「大丈夫パワー」送っておきますねー。
大丈夫ーーー(*´ω`*)フワフワー♪

 

あなたがいてくれるだけで幸せ。
心から大好き。愛しています。