笑いの神様 ~シリアスになることを許されない運命~

私は真面目だ。

昔は人からそう言われるのが嫌で、
わざとふざけていたこともあった。

が、そもそもがオモシロだという
指摘も多々あり、
真面目もオモシロも素だと、今は
開き直っている。

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小学生の頃、
親が通知表を受け取りに行って
担任の先生の話を聞く、という機会
が学期末にあった。

そこでうちの母が聞いてきたのが、
「〇〇さん(旧姓)は、とても
真面目で…(何やらほめられた後)
おっちょこちょいなところが私、
大好きなんです」という先生の言葉。

これをほめ言葉と思わなかった母が
「ごめんねぇ、
おかあさんがしっかりしてないけぇ、
あんたにも遺伝したんじゃねー」と
しきりにすまながるのだ。

ちなみに母はA型で、O型の私より
はるかに几帳面で細かい人である。

私は無言で一人、衝撃を受けていた。
おっちょこちょいはバレてないと
思っていたからだ。

学校では完璧に自分のミスをカバーし、
うっかり八兵衛な自分を、ちゃんと
隠しおおせているつもりだったから。
(これ、本当にきちんとした人から
みたらバレバレで、
「ちゃんちゃらおかしい」らしい。
・・・そうなの?笑)

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以前FBでカミングアウトしたが、
私はA型に憧れるあまり、
A型のふりをして生きていた時期が
あった。大学卒業くらいまでかな。。

A型で華奢で小柄な女性がモテる!
と信じて疑わなかった私は、
O型で体格も良く、まーまー大柄、
という自分の個性を否定していた。

自分で自分をそう捉えていたから、
たまに良い話があっても信じられず
うまくいかないことも多かった。

この小学校高学年の時は、
正式に調べる前だったので、自身を
A型だと思い込んでいた時だ。

几帳面かつ細かく正確にこなさねば。

その強迫観念は私の神経をとがらせ、
エネルギーの大部分を奪っていたが、
当時はそれに気づく由もなく、
日々「優等生」「できる社員」(一応w)
として生きていた。それなのに・・・。

小学生の私も
「いやいやいや、たまたま先生が何か
見ただけで、私そんなに
おっちょこちょいじゃないし。」
そう思い直し、自分像の脳内修正をして
落ち着いた。

だが、繰り返されるおっちょこちょいと
笑いの日々。

考えてみたら、
自分のおっちょこちょいに救われてきた
ことが実に多いことに気づいた。

客観的事実だけをあげれば、どこにも
笑いの要素が発生し得ない場面でも、
ここに「私」をポンと加えるだけで笑い
が発生する。してしまう。

笑いの神様がついているとしか
考えられない。

これを許し、
ときにカバーし(申し訳ない)、
笑ってくれる度量の人とでないと、
一緒にいられない頻度で色々発生。

ある時からこう思うようになった。

私には笑いの神様がついていてくれて、
シリアスになるのを許されない運命
なのだ、と。

本人的には泣きたい気分の時もあるが、
まわりの人達が笑ってくれるから、
もうそれでいいと思うようになった。

ユーモアは最高の知性だと思っていて、
ユーモア、笑いはいつだって私を救い、
味方になってくれているものだが、
おっちょこちょいは人を和ませる、
というのも、開き直りついでに掲げたい。

私が私らしく生きていくためにも。

私といると多分、
深刻になりたくてもなれません(笑)。
少なくとも無駄に落ち込むことはないかと。

これをアピールポイントにしたいと思う。