愛の器 ~からっぽでいること~


自分の価値って
考えたことありますか

私はあります
考えて、考えて、
考えた結果
自分には価値がない
そう思っていました

例えば誰かと会っていて、
私はこの人と会っていると
沢山の刺激や恩恵を
享受しているけれど、
この人は私と会っていて、
果たして何か得るものが
あるのだろうか、と

楽しんでもらいたい
一緒に楽しみたい

そういう気持ちはもちろん
あっていいし、
それがあるからこそ
会う時間がより充実する
ということもありますよね

せっかく会うのだから
お店を探すなど
下調べをするとか
イベントをチェックするとか

でもそういうこと以上に
何かを与えなければ
役に立たなければ
自分には価値がない

そう思っていたふしが
あったんですね、私の場合

けれど
実はそうじゃなかった
ということに
気づいたんです

—–

ヒントはもう
ずいぶん前に言われていて
受け取れたのがわりと最近
という感じ

「ペットみたいな人」

以前そう言われて
戸惑いました

それはただ、そのまま
生きているというだけ
なのではないかと思い、
なんなんだ!?という
感じだったんですね
ピンとこないというか

バカにしてるのかーと
半分本気、半分ふざけて
返してました

—–

ペットといえば
実家で最後に飼っていた
ワンコのこと

ゴン太(ゴンくん)は
手のひらにのるくらいの
ちっちゃなとき家にきました

ゴンくんはなぜか最初から
私を好きでいてくれて

同じ時間に出かけるのでも
会社へ行くときは
鳴かないのに
遊びで出かけるときは
自分も行きたいというように
きゅんきゅん甘えたみたいに
鳴くんです

なぜ分かるんだろうって
いつも不思議でした
何か感じていたんでしょうね

ゴンのことを話すと
複雑な気持ちになるんです

どんなに遊んでやれなくても
散歩にいけなくても
何もしてやれなくても
ただただ好きでいてくれて

病気で旅立ったのもあって
どうしてもっと
こうしてあげられなかったのか
と思うことばかりで
何もできなかったという後悔で
胸が痛くなるんですけど

何をしてやれなくても
ただただ好きでいる
それを体現してくれていた

そしてきっと
何をも求めていなかった、
と思うんです、ゴンは

ただ、私を「好き」って
想ってくれてるだけで

—–

今までのことをふり返ると
「受け取ること」
これだけでよかったのだと
思っています
受け取れる人であることが
価値なのかなと
気づけてから感謝しました
涙しながら
(なぜか出てきて…)

愛を受け取るためにいつも
からっぽでいたらいい

そんな気がするんです

男性は与える性
女性は受け取る性
といわれてて
男性性、女性性とも
いわれますね

私は小さい頃から
自分の女性としての
魅力や価値を、あまり
認められない環境にいて
自分でも認めていなかった

だからきっと無意識に
何かを与えなければ
自分には価値がない
そう思っていたようです

だけど今年に入ってから
自分のことをふり返ると

何かを与えることが
できていなくても
いつだって本当は
愛を与えられていて
それを受け取るだけで
良かったんだ

ということに気付けて
そこからですね
(すごく遅いですけど…)

受け身ではあったけれど
受け取ることはできていなかった
という感じかと

主体性と自覚を持って受け取る
これが大事なんだと思います

そのために
自分の心にある受け取り専用の
「愛の器」をきれいにして、
からっぽにしておく

そうしたら
与えてくれた愛に気付けるし、
受け取れる

お返ししなければとか
そういうことは考えず

考えるとしてもそれは
後から自然とできているもの
だと思います

するとしたら
愛を「受け取ったよ」って
反応を返すこと
ありがとうって感謝すること
喜びを素直に表現すること

「愛の器」は広がります
だから少しずつ大きくなって
次第に器という枠もなくなり
生きている存在としての私が
愛そのものになるのかなと

そうなれるまで
生きている限り
あたたかな気持ちで
きれいで純粋なからっぽの
「愛の器」をたずさえて
ここにいよう
きっとそれが私の価値
(まだ言い切るには勇気がいるけど)

そう思います