こうの史代さんの作品。
初めて読んだのは
「夕凪の街 桜の国」だった。
こうのさんと同じく、私も広島出身。
ちょうど話題になった頃、
店頭で見つけて購入し、読了。
泣いた。ほろり、ではなく。
胸の奥からこみ上げるように。
普段自分では気付いていない傷から、
血が流れている・・。
そんな気持ち。
知らないと思っていただけで、
確かに存在する痛みに気付いた。
主人公の、平野 皆実(ひらの みなみ)。
(*主要人物の名前は、
広島に実在する地名である)
原爆が投下された後、
サバイバーズ・ギルトを抱えて
生きている。
”うちはこの世におってもええんじゃ
と教えてください”
”生きとってくれてありがとうな”
・・皆実と打越との会話・・。
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「この世界の片隅に」(前・後編)も、
広島の話。
広島市からみると東南にある
「呉(くれ)」という街が主な舞台。
軍都として知られる「呉」の
北條家に嫁いだ、主人公のすず。
戦時下の一主婦であるすずが見聞きし、
体験した出来事が描かれている。
戦争中のある出来事から
身近な人の命と自らの右手をなくした、
すず。
”なんでうちが生き残ったんかわからん
(略)”という気持ち。
皆実とはまた違う罪悪感から自分を責め、
居場所がないと思いつめる。
だけど近所の主婦、
刈谷さんと話していくうちに。
その罪悪感を生きる力に変えていく・・。
これが素晴らしいと思う。
ここの一連の場面はモノローグ・絵、
ともに美しく、作品中の白眉。
生まれ、生かされて、いま生きている。
その自分の存在を認めること。
認め、生きようとする姿勢が、
生への、命への感謝でもある。
前編の扉に
”この世界のあちこちのわたしへ” とある。
どういうことだろう・・と読み進め、
読み終えて分かった。
すずは、当時生きていた女たち全てを
代表した存在なのである。
昔の女性みんな・・
それは今のわたしでもある。なぜなら。
すずの感じた気持ち・心のかけらは、
未来の私達の中にもちゃんとあるから。
そして、亡くなった人の記憶をとどめる
自分の命に思いを馳せる、すず。
”うちはその記憶の器としてこの世界に
在り続けるしかないんですよね”
自らの心と実感を持って、
つらさや悲しみ、痛みを昇華していく。
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今はどうなっているか
詳しく分からないけれど。
広島の子は小学生の頃から、
原爆と平和についての授業を受けてきた。
何度も足を運んだ、原爆ドームや資料館。
目を開けていられない、
到底受け止めきれないような現実。
大変なことだとは理解できても、
怖かった。
授業の間考えたら、
あとは悲しみと怒りの感情は見ないように、
少し横に置いておいて・・という気持ち
だった。
日本全国この惨禍を知り、
同じような痛みを分け合っている。
と何の不思議もなく思っていた。が。
関東に越してきて、
そういう雰囲気じゃないんだな・・
と思った。
私は原爆について、
いつも身近なものと とらえて考えていた
訳じゃない。
でも、そっかぁそうなんだ・・と
なんともいえない寂しい気持ちがした。
と同時に、しんとした心で実感した。
当事者やそれに近しい人の感情に
心を寄せることの難しさ、大切さを。
この作品では、
戦争・原爆も背景として分かちがたい、
重要な要素である。
だけど、
すずの心の方向性、性根の清らかさ、
おおらかさ、たくましさ。
自分が選んだ
(のでなくても今ある環境の)
流れや人に寄り添い、生きていく。
その姿勢と命 の大切さ。
これを一人の女性の姿を描くこと
によって、 表出させているのだと思う。
すずが生活しているところを見るだけで、
言葉じゃなく感覚として分かる。
伝わってくる。
”この世界の片隅に
うちを見つけてくれて
ありがとう 周作さん”
そう語るすずは
”この世界のあちこちのわたし”だ。
彼女はわたしたち。
目の前にあなたがいる。わたしがいる。
この奇跡は、
当たり前の(不遜にもそう思っている)
日常そのものである。
○この世界の片隅に(前・後編)
こうの史代<双葉社>
のんびりおっとりした”大陸的”な性格
の娘、浦野すず。
北條周作に見初められ、呉に嫁いできた。
配給の列に並ぶ。代用食作り。
隣組の活動。
義両親に加え、
出戻った義姉親子との同居生活。
すずの生活のひとコマひとコマが、
何気ないその生活が、きらめく光だと思う。
それは私達一人一人も同じ。
悲惨な状況に目を覆い、
思考停止するのではなく。
その中でも人々が生きている
普通の生活があったこと。
このことを思い、感じることで
分かることがきっとあるはず。
今はもう旅立った祖父母から聞いた
昔の話を思い返しながら読みました。