幸せになるために 

 

幸せになるために。
この世に存在している言葉や表現、知識、
知恵、その他ありとあらゆるものは、
この目的ありきで存在している。と私は
想っている。


言葉を使って仕事をしている身として
感じるのは、言葉に誠実でありたい、
ということ。欲を満たすために言葉を
使わない姿勢、あり方。

自己顕示の欲から、
一般に理解しにくい
難解な言葉を使ったり、
認めてもらいたい承認の欲で、うけそうな、
流行りの(言葉を知ってる自分を認めて
ほしいという欲)、気持ちの乗らない言葉を
使ったり。

言葉は、ありがたい道具であり、
それ自体愛おしく、美しい、知恵の産物だ
と想う。
人間の作った、便宜上必要である
と同時に、自然発生的に意味と価値を持つ
作品、生き物であると。
愛や本心という命を持った言葉は、
生きている。

欲や嘘がのった言葉は、どこか空疎で
心に響かない。躍動感あふれる生、
胸を打つ情感を感じられない。

愛や気持ちといった無形物を有形にし、
それを自分以外の人と分かち合える道具に
なるのが言葉。
これがあるからこそ
そうできる、という
意味でも、
表したい伝えたい愛や気持ちと
同列の価値があると私は想う。
それより先でも後でもなく。
私は道具としての言葉をないがしろにしたり、
そう考えたりしたことはない。
言葉は命を持ち得るもの。

自分が好んで使う言葉には
特別な想いが
あり、
自分の気持ちの変化によって、
言葉に対する誠意や忠義を
捨てることもない。

言葉にはそれ単体で意味と価値がある。
使う側がそれを軽視したり、操れるから
優位
だと勘違いした時、言葉という道具が
意味と
価値を自ら手放すような気がする。

私はこの世に存在する言葉たちと協力して、
想いを形にしている。
その際、自分により合う、感覚として
合う言葉を選ぶようにしている。


漢字は、漢字で表す必要があるから
用いるのであり、それを知ってると示す
ためではない。熟語も同じ。
言葉という道具があるからこそ表せる、
のだから、事実や気持ちと言葉は、
お互いがお互いあってこそ。
道具に敬意を表し、大切に想うのは当然。

カメラもそうかもしれない。
被写体があるから、カメラがあるから、
写真が生まれる。
カメラを軽視したり、
逆にカメラだけを重んじることも、
カメラという道具に対し、
誠実だとは想えない。


私は道具としての言葉に、
愛と敬意を持っている。
存在してくれるから、表すことができる
ので。
私と言葉は対等の立場である。
使っていても、使わせてもらっている、
のであり、使われていても言葉は、
私だけに従属するものではない。
それ自体が、先人の生み出した、
数えきれないほど多くの人たちの気持ちを
乗せて、生き続けている道具、だから。

言葉とは、道具であり感謝すべき仲間。
欲や嘘のためではなく、
よくない決めつけ等
のために使うより、
大切な人と向き合う
のと同じように
誠実に、協力し、助け、愛し、
表すために、
伝えるために、使いたい。

知って、感じて、響きあい、
自分と誰かが

幸せになるために。