なにものでなくてもいい -自然とそうなっている-

晴れた日に撮った空の写真を…。


なにものでなくてもいい。

そう思う。

 

なにものでもない人が、

なにものかであるように、

見せたい、思ってほしい。

その先にあるものは、

なんだろう。

 

なにものでもなかった、という

失望や期待外れではないか。

 

それなら、見せ方もいらないし、

思ってほしいというのもエゴ。

なにものであるかは、

なにかを成して示すしかなく、

なにものかである人はすでに、

それをしている。

 

そしてそれが、いかに

ひそやかな表現であったとしても、

その魅力が本物で、輝きを放つもの

であれば、必ず見つけられる。

必ず。

誰かが見つける。

放っておくはずがない。

そのきらめきを。才能を。表現を。

 

見せ方に成功した人が、

いっときもてはやされたとしても、

いっとき。

それはまやかしの偽物だから。

 

注力すべきは自分。

自分の興味あること、好きなこと、

好きな人、そこに自分のすべての

エネルギーと時間をそそぎこむ。

見せ方ではなく、あり方に。

どうあるか。どう生きていくのか。

自分のありたいあり方で。

自分の生きたい生き方で。

自分が共に生きたい人と一緒に。

 

そこに集中していたら、気づくだろう。

なにものかになっていた自分に。

それを認めてくれる世界があることに。

 

なにものでなくてもいい。

なにかを成していけば、自然と

なにものかになっている。

 

そのなにかは自分の中にある。

それを見つめ、認め、取り出し、

表出させるのも自分。

 

見せ方にこだわっている暇はなく、

どうあるかに懸命になるうち、

日々はすぎていくだろう。

 

見せ方や、まわりの承認に

重きを置くのではなく。

あり方や、自分で自分を認める

生き方を目指す。

 

そうすれば、なにものであるかに

こだわらない自分のまま、

なにものかであると

認めてもらえる世界に生き、

ただ自分が、

そうありたい、と追求する姿が、

なにものかである状態に

なっているだろう。

 

今、なにものでなくてもいい。

自分の中にある、自分が知っている、

なにかを成したその先に、ある。

自然となっている。

なにものかに。