受け取ってそばにいる -愛と癒し-

少し前、私はある方に
とても親切にしてもらった。

言葉少ななやり取りの中で、
さっとしてくださったことだが、
私がその人の行動や態度から
その瞬間、受け取ったのは、

『自分は今、あなたのために
あなたが喜ぶであろうことをするが、
そのことで恩を着せるつもりも、
意図を理解してほしいとも思ってない。
あなたが喜んでくれるならそれでいい』

という感覚。

なんて聡明で優しい人なんだ、と
思い、純粋な心を感じた。
とても嬉しくなって言った。
「わーありがとう!!!」と。

その瞬間ふと、
時がとまったような雰囲気に。
「(。´・ω・) ?」と意外に思い、
気づいた。

たったひと言の
お礼の言葉では足りないほどの
親切を与えてくれていながら、
その人はひと言の感謝の言葉も
期待していなかったのかと。

同時に、
この人はいつもこうやって
生きているのかーと思った。

自分が関わる人に、
持っているもの=物や技術・知恵
などを惜しみなく与え、
相手にその意図を理解されない
としても、感謝などされなくても、
そうする。

これが愛でなくてなんだろう。

私は静かに感動していた。

皆での食事の時、その後の行動も。
あーいいなーと。
心遣いや、人との接し方も、
素敵な人だな…と。
帰り際のあたたかなまなざしも。

—–

分かりやすい「言葉」がなくても、
行動や態度で愛を示された時…。
きちんと受け取れる自分でいたい。

いついかなる時でも、
どのような形であっても、
差し出された愛を受け取れる
自分でありたい。
ありがとうと感謝の気持ちを
伝えたい。

そして、改めて思ったのは、
非常に聡明で繊細な人は、
より多くのことを感じ、考えている
のだなぁということ。

あらゆる可能性や相手の気持ちを
考え、想像できる頭の良さ、
いろんなことを感じ取れる繊細さが、
自らを傷つける場面も多いのでは、と。

孤独に慣れていて、
理解されなくてもいいという
諦念があるのではないか。
聡明だからこそ、の。
賢く優しいからこそ、のそれが。

もし、できたらだけど、私が
そういう人のそばにいていいなら、
ただただ、ほっとしてほしいと思う。

頑張るその人が笑えるような、
思わず力が抜けるような、
そんな存在として
そばにいられたら、と。

すごいー!!!と
活躍ぶりを見ていたい。
隣りにいられることを喜びながら、
ただニコニコ笑っていたい。

とことん脱力を提供したい。
たぶんそれしかできない。
できたらめっちゃ笑わせたい(笑)

—–

私は、賢くて繊細な人が考える
複雑ですごいこと、
全部は理解できないかもしれないし、
(たぶんできない)
力になれることもないんじゃないか。
(ちょっ…。おる意味あるん?w)

だけど思う。無力な私でも、
「誰からも理解されないとしても、
関わる人に、世の中に、愛を与えたい。」
そう思って生き、仕事に打ち込む人の、
癒しになれたらな、と。

世の中や人への諦念からの孤独を
少しでも和らげ、激しい戦いから、
身も心も休める居場所になれたら…。
これほど嬉しいことはないと思う。

ポンコツな私がもし役に立つとしたら、
これしかない、と。そう思うのだ。

大切な人が少しでもほっとできて、
安らいだ心持ちでいられる存在に
なれたらいいなと。

それが私の、
ささやかで大きな願い。だ。