今の私はどうなって、なにから
今の自分になったのかな。。
そう考えていたら
10年前の私、20年前の私、30年前…
こどもの頃から今の自分だなーと
気づいて。
—
私が大学を卒業した時、
母がとても喜んでくれて、
卒業証書を部屋に飾りたいと言って
飾ってました。
*母の部屋です^^
自分は高卒で親としてすごいこと
してあげられてはいないけど、娘が
大学を無事卒業したこと、それを
財産として持たせてあげられたのが
嬉しいと。
その時想い出したのは、
私と妹がまだ小さい頃…といっても
小中学生の頃だと想いますが、母が
「お母さんね、あんたも〇〇(妹)も
ずるいことせんのが好きなんよ。
されてもせんし、そういう子が好き。
いいとこじゃ思う^^」
と言い出し、なにかなと思いつつ、
そっかーと聞いていた覚えがあります。
ふだんからぽーっとしてて
本が好きで、知らない人とは話せない
おとなしい子だった私が、
いじめられていた子をかばったため
今度は自分がいじめられ、悲しくて
泣きながら母に話を聞いてもらった
時も、
母は成績が良いとか競技で大会に出た
ことより(それも喜んでくれましたが)
目に見えないもの…愛や、
人としてあたたかで優しく思いやりを
持つことをいつも重視していて、
それを肯定してくれていたなと
想います。
小さい頃から今も、それが大事で
母もそれが大事だと教えてくれて
それを信じて生きている私、だなと。
—
私は今、カメラマンとライターを
しています。
最初は好きで始めて、その後、
好き+少しでも自分なりに上を目指し
コツコツできることを続けていたら、
価値を認めてくださるご縁を得て
(ほんとにありがたいことです)
仕事になっていきました。
10年前、20年前、30年前…。
振り返ると、自分はやはりどの時も
今と同じ自分で。
10年前の文章も、今と同じマインドと
あり方で書いています。技術的に多少
当時より上手くなっていたとしても、
私が10年たってなっているのはやはり
「私」なのです。
真摯な気持ちや姿勢で、
伝えたいことを書く。
小さな子も理解してくれるように。
表現としても人としても純粋に。
そうしたいと想い、そうしてきた。
たとえ誰かが私の真似をしたとしても、
それは表面的にすぎず(完全に真似る
ことも擬態もできない)、
その人は私にはなれない。し、
なる必要もない。
その人が進んだ先に私はいない。
10年、20年、どれだけたっても。
まったくちがう世界、世界線にいる。
10年前、20年前、30年前…もっと前
からそうなのだと。
生まれ持った性質や特性などが
それぞれにあって、ちがうから。
*優劣ではなくちがいなので。。
生まれた時からちがいがあり、
それは性質…欲の強さやマインド、
あり方も。今始まったことではなく、
これからもそう。そのちがいが
その人であり個性だから。
人はどうあれ、私は、
承認の強い欲や、本質はそうでない
ものに見せたり擬態する+それを
続けたり、攻撃する意図などからの
表現をしていないのと、
自分の表現が、誰かの共感を得て
価値を感じてもらえたり、
それ自体が防御になったり、
自分も好きで嬉しいと想うものを
表現として出していきたいです。
10年先にも、20年先にも、
その先にいるのは「私」で、
私以外の何者をも
私になることはできない。
そして私は、今もこれからもずっと
研鑽していきたいし、そうする。
新しいことも、
ふるくからあることも、
まだまだ知らない知りたいことが
沢山あり、それを知り、
自分の身にして進んでいく。
だから、常に新たに楽しい努力や
研鑽を積み重ねている最も進化した
私でいる。濃く深く。
体も心も表現もすべて。
対象が常に進化し続けていたら、
誰も真似できず、何年たっても
対象の人のようになることはできない。
…というより、そもそも
自分以外の誰か(みたい)になるという
考えも、先に書いたことからしたら
成り立たないのと、真似や擬態を
どれだけしても100%にはなり得ない。
ちがうから。
その人はその人になる。
しかないのだと想います。
それが最善なのだと。
—
自分に集中し、
自分の本当にしたいことに気づいて
そこに注力する。自分であるために。
自分になる、ために。
生まれた時から持っている才能や
特性に気づき、認め、活かし、伸ばし、
そこから自分になっていくために。
その先にいるのは自分。
これを知っている人の表現を見たいし、
それこそが、見る人をなごませたり、
共感や価値を得て喜ばれる表現になり、
誰かに価値を感じてもらえた時、
それが仕事になったりするのかなと。
これからも、自分が自分の表現を
好きという気持ちで、いろんなものを
生み出していきたいです^^