満たして生きる -幸せな環境に身を置く-

「嫉妬されるべき人生」という歌が
あって。(作詞作曲:宇多田ヒカル)

シットされるべき人生…なるほど、
と共感しました。逆説的に表された
まぎれもなく幸せな人生。
最高に幸せな人生。。
。。アリガトウ(❃´◡`❃)♡

自分以外の人に干渉する人は
既婚・未婚、その他の条件に関わらず
真にその人自身の人生を生きていない、
現状に不満がある(どのように見えても
まわりの誰かのせいだと思っても、
感じる不満のすべては自身の責であり、
自分の裁量で生きる大人ならそうだと
私は想っています。。)と解釈するので
こちらが想う・願う、のは
ご自分に集中して、いい状態でいて…
ということだけです。

どうすることもできないし、
する必要もない。キョリをとる、
静観するのが最善なのだと想います。

そしてこうも想います。

人に干渉したり、ジャマしたり、
シットしたり、する方よりも、
干渉されたり、ジャマされたり、
シットされたりする方がいいのかもと。

なにをもって自分以外の誰かに
そうしていいと想ったのか…。
いいと想ってないなら、
なぜそれをし続けるのか。
言い訳、負け惜しみ的発言(暗喩など)、
客観的にご自身はどう想っているのか…。
干渉や攻撃の対象にしている人にも
その人なりのこれまでや事情があると
忖度・想像しないでいるからできる
のかなーと想ったり。

そうされることを甘んじて受け入れ…
てはいないし、そのつもりもない
ですが、なるほどーと。受け流す。

そうされるくらいこちらは幸せなのだと
再認識する目安にしたらいいのかな…
そう考えた方がいいのかなと想います。

ただそれすらこちらはいらない、です。
意識して見たり、監視もして頂かなくて
いいです。

どれだけ何度、干渉や圧をかけられても
一歩もひかない。し、動じない。
干渉や圧によってなにかがいい方向に
変わるということもないので。

干渉にもいろんな形があり、
直接的、間接的、便乗など様々です。

分かってる・見抜いてるアピ、のぞき見、
あてこすり、等々も。

(これをして何になるのかなと「?」
でした。分かってるアピや、仕事として
依頼していないのぞき見は干渉以上の
罪だと想いますし、それをわざわざ示す
意味も分からず、第三者の友人に訊いて
みたら
ビビらせようとしてるんじゃない
言われ、そうなら意外で驚きました。
品性や倫理観はどうなってるのかと想う
ことはあっても、ビビることはなくて。
ただそれが罪だと自覚していたとしても
示してしまう・そうしないといられない、
ことについては、承認欲とか顕示欲かな
と推察しています。それが強いのだなと。
でなければ、示す必要はないと想います。
本当の事実とはちがっていて、あて推量
の域を超えてない&誰の得にもならず、
自分になにもしていない・関係ない人に
干渉している+こういうことをしていたら
どういう人間か自白しているようなもの
だと想うので。。)

便乗にはツイートのいいねでそれを示す、
ことがあるのを実感していて、
その元ツイ自体の意味ではない、
いいねする人自身の都合によって
印象操作する意図でのいいねが多いなと
見て感じています。

いいねでそのようなものを示せるのかと
指摘する向きもあるかと想いますが、
実際にいいねを見てそれを感じたことが
あるかたは理解してくださると想います。

その前提で話を進めると…。

言葉にはひとつひとつ意味があり、
それを集めたものが文章。
文章に込める意図があって存在している。

ツイッターならツイートした人
記事なら文章を書いた人、が込めた意味
を、不安や疑念をあおる目的にあてはめて
示す。これにより攻撃などの干渉をする、
という形です。

たとえば、
チャレンジしようとして中々できない、
それによって来たチャンスを活かせない、
逃してしまう…という状態にいる人に

「焦らなくていい、気が乗らないなら
無理に行動しなくていい」という文章を
示したとします。

この文章自体はそうと言える可能性が
あるものだと想います。では実際に
この文章の真意を理解し体現した上で、
効果が出るとしたらどういう人物なのか。

を考えた場合、

考えるより先に行動する傾向があり、
行動するのはいいとしても、それが
先走って、後でかなり修正やフォローが
必要になったり、無理した結果、
心的にも負担を抱えることになった…と
いう感じの人かなと想います。

行動した方がいい時にできない、ことの
理由・拠り所としてこの文章を使うと、
文章自体の真意を理解できず、体現も
できないままで効果もない、状態になる
のではないかと想うのです。

よくないぬるま湯になり得たり、内的に
自身を恃む気持ちをなくしていったり。

『その言葉や文章自体が持つ意味、
信ぴょう性、そうと言える可能性がある』

ことと、

『その言葉や文章を、今の自分…
自分なりの性質や状態、環境を持つ
自分が果たして取り入れていいのか、
取り入れるのはふさわしいのか』、

はちがうので、それをよく考える。

考えた上で「影響を受けるかどうか」を
判断し、選んだほうがいいのではないか
と私は想います。

これを意図的に混同させ、
そうと言える可能性がある・かもしれない
その人にあてはまらない、ふさわしくない
文章を示し、故意に不安や疑念をあおる、
その人自身が「これでいいのだ」と思う心
やその状態を揺さぶろうとする、のは

そうは見えない形でも攻撃であり、
干渉だと私は想うので、そのようなものに
屈する気持ちはない。です。

(念のために書き添えると、
これって私のこと?という心のざわめきを
他者に否定してほしくて示す被害者意識は
別です。これは自らが解決する必要がある
領域の感情だと想うので。)

もっと簡単に言い換えるなら、
心がざわっとするものは、一見よさそうに
見えても、そうかもしれないと思っても、
自分と自分の感覚を判断の主体とし、
スルーしていい、ということです。

すごく優しかったり、お人好しだったり
する人はとくに。

心は感じている。
自分にとって本当にふさわしく、
必要なものはなにかを。
頭や論理的思考、筋よりも先に。
そう想います。

『故意に不安や疑念をあおる、
その人自身が「これでいいのだ」と想う
心やその状態を揺さぶろうとする、のは

そうは見えない形でも攻撃であり、
干渉なので、そのようなことをしてくる
人が多い場所は安心できない。
身を置く環境として機能しておらず、
適してもいない』と私は判断します。

キョリをとる。見ない、関わらない。

これが、干渉する側・される側、
双方にとってプラスで、合理的かつ
建設的な行動だと想います。

見るから、いろんな対策や防御をする
必要が出てくる。見ないでいれば、
それらはしなくていい。

見ないというのは、干渉する側にとって
最もされたくないこと、ではないか。

見てくれているからこそ、
干渉できて、攻撃もできる…
その可能性が出てくる、のだから。

近年の経験から、
干渉や攻撃、非礼や無礼に対し、
こちらが良識で対応しようとしたり、
スルーしているだけ、もめたくないと
見逃したり、そっとしておいてほしい
と耐えていても、干渉や攻撃する側が
それをやめることはないということが
分かりました。

防御したり、思い通りになる気はない
と、きちんとはっきり示す必要がある。

これは好意を持たれた時も同じです。
気持ちを伝えてくれたら、それには
沿えない旨を伝えておことわりできる。
良識あるかたなら、こちらに相愛の
相手、恋人がいると知れば身を引いて
見守ってくださる。

ただ、そうではない場合…
欲の強いかたは、伝えないまま「愛」
ではなく、男女問わずですがシコメの
深情けのような「執着」から、
圧をかけたり干渉をしてこられる。

関係性をこわそうとしたり、ジャマを
したり、沈黙・ごまかし・アピール等、
相手の選んだ人と尊厳、関係性を全く
尊重せず、自分に気を引きたいという
自己中心的な気持ちから相手の恋人に
マウントをとろうとする(そうなって
なくても行為自体が不遜で自己中です)
イヤミやあてこすり、分かってる等と
示し、嫌がらせ(時に誹謗も)、心的圧、
負担を故意にかけて攻撃する。
一度ならず何度も。繰り返す。

そういう言動ができる、良識と客観性を
欠いていることに驚くのと、なにより
このようなことをして好意を持つ相手に
なぜ好かれると想うのか、が疑問で…。

気持ちがない、上に、さらにない、と
感じさせるに十分な言動なので。

ないものはない、です。
どれだけ時間がたとうと、待とうと、
ない。その人がその人だから、ない。
これは事実で、誰にもどうすることも
できない。

こちらの話でいうと、
想い合っているのは、
私の大切な人が大切な人だからある。
私が私だからある。

想い合うふたりが持続する想いを持ち、
この人だけ、この人は自分にとって
唯一無二だと強く感じて生きている。

それは今にはじまったことではなく、
出会った時からそうで、ずっとそう。

出会う前からそうだったのか…と
出会いの後で気づいたり、出会って
以降、ますます「ある」ことを示す、
証明するような事象が起き続けている。

自分の奥底…真我や魂が知っている
未来を体現し続けている。
…という感覚で生きてます。

一緒になるのが自然で、当たり前の
ように感じる感覚。
いろいろ話してもだまっていても
しっくりきて、安心できて
顔を見るだけで、存在を感じるだけで
笑顔になれる。なにをしていなくても。

これまでと今の現実がすべてです。
未来も、これまでと今の中にある。
だからないものはない。のです。
そしてあるものはある。

こちらの事情を知らないで、ご自分に
都合の良い解釈をし、現実を認めず、
圧や干渉をかけてこられる。こちらは
きちんとおことわりしたくてもできず、
ずっとその圧を不快に感じている。
これは本当に迷惑です。

こちらが、干渉や攻撃などの非礼・
無礼な言動をする人、人達、集団から
心身を守りながら生きていくために、
それらの人を自分の世界にいない人達
=友人知人・仲間ではなくなった人達、
こちらがなにもしてないにも関わらず
危害を加えてくる仇なす人達、と
認識した上で、双方のちがいを尊重
するためにも、見ない。関わらない。

そうして得られた時間やエネルギーを
関わりたい人、好きな人・もの・ことに
注げる。その利点を心から感じられたら
それができるのだと想います。

干渉されている側が
お互いを守りながら進むためには、
片方だけが見ない・関わらないを
貫いていてもダメ、で。

きれいな海、すがすがしい森、
涼やかで気持ち良い水辺…だけでなく、
汚泥の中にいたとしても一緒にいる。
感じる気持ちを共有しフォローする。
時にどちらかが前へ出て守る。
(ありがとう…꒰*´꒳`*꒱)

いいこともそうでないことも
共有し、一緒に感じる。
それもまた想い合うふたりの形、
関係性(の一部)なのだと想います。

自分がどう想うかは相手に伝えつつ
(聞いてくれてありがとう^^)
相手の選択と行動を尊重し受け入れ、
それに沿った行動をしていく。

関わらないにつながる行動…
具体的には、フォローを外す、
やり取りもしない。
あえて空気をよまない言動や
態度をとられても受け入れない。

すぐにそれができないのであれば、
静観する。のが最善だと想います。
自分と自分の大切な人の心身と
尊厳を守るために。

自分が安心できて、
その状態に貢献してくれる、
そうしようと想ってくれている人
と関わる。

どうでもいいからなにも感じないと
いうラクではなく、
自分をそのまま受け入れ、
尊重してくれるから居心地が良く、
心があたたかくなって楽(らく)で
楽しく、嬉しい環境に身を置く。
そういう人と関わる。

それをするのに少しエネルギーが要ると
しても、自分が愛を感じ、本当に価値を
感じる人と関わる。

これがとても大事になるのだと想います。
幸せを感じて生きていくために。

自分を満たして生きる。
自分の心を愛で満たす。

自分を大切にすることから。
愛する、大切な人の存在で。

幸せな環境に身を置く。
自らを鼓舞したり、そうできるものに
積極的に触れる。近づく。

そのために勇気やエネルギーが必要なら、
どうしたらそれを得られるかを考え、
一歩でも前に進む。少しずつでも。
そのことが次のより良い展開につながる。

惰性や逃げた先には愛も希望もなく、
どこまでいってもそこに幸せはない。
感じることはできない。

愛があるから幸せを感じられる。
近道、遠まわり、いろいろあっても
最終的に人が目指し求めているのは
愛なのだと想います。

大切な人にとっての私、私の存在が
そう行動したいと想う気持ち、
それが生まれる一助になれるとしたら、
こんなに嬉しいことはないですし、
とても幸せで光栄なことです。

そうであるといいな、そうなれると
いいなと想い、生きてます。
私にとって大切な人はそういう存在。

今までの臆病な自分を変えてくれて、
本来の自分や、本当に希求するもの、
状態を思い出させてくれた人。
行動したいと想い、その行動を促して
くれた人です。
自らの行動やあり方で。

これからも、幸せな環境に身を置く、
幸せを感じられる環境を作るための
営為を続けていきたい。

満たして生きるために。
大切な人と私自身を。
お互いを満たし合いながら。

満たして生きる、を体現できる、
そうしたいという気持ちから選択し、
行動できる。

そのような人との出会いは奇跡。
感謝しています。

ありがとう^^