食えないな と思う人に関わらず つらい経験 餅に変えよう
仇討ちを しても しなくても いいけど 満足とカタルシスは必要
「良いものに変える -餅にしていく-」
—-
◎創作ノート<解説>*ネタバレを含みます
仇討ちのために上京した武士と長屋の住人のやり取り、なにをポリシーとして生きるのかについて考えさせられた映画「花よりもなほ(2006)」は、脚本も是枝監督が担当されている時代劇です。江戸時代は公的に仇討ちできる世の中、今はできない世の中、ですが、人の心って時代が変わってもそんなに変わらない。加害側の闇や不満やストレスのはけ口に被害側がされる正当な理由や義務はなく、した側に相当の報いが返っていくのは筋で道理なので、早晩そうなると思いますが・もしくは数十年後かもしれないけど必ず、それとは別に、理不尽にひどい目にあった・あわされた被害側の感情の昇華、カタルシスってとても大事だと思っています。いじめをしたり、誹謗中傷したり、パワハラする人、加害側に対し、自己主張をし、毅然とNOをつきつける。非を指摘し、償いをしてもらう。それができたら一番良いと思います。罪を犯しているのは加害者側なので。でも、それができない場合どうするか。ここで、生きる上でのポリシーが必要になって来るのだと思います。私は、理不尽でつらい経験や、苦い経験は、必ず良いものに変えよう、と思って生きています。そうでないとやってられないというより、そうしたほうが私の性に合っているから、です。ぐじぐじしたままだったり、マイナス感情を持っている状態のほうがいや。それより、少しでも早くクリアにしたい、クリアな状態で生きていきたい、という気持ちが強いから。もちろん変えられないものもあるだろうし、それをカテゴライズしようとしたり、無理に昇華しようとしなくていいと思います。できるなら、そうなれば、で。いじめをしたり、誹謗中傷する人っていますが@自分や身内含め身近な友人知人にはいませんが、そういう人は、していることや実質的にも被害者からしたら敵であり、迷惑なのですが、味方になったとしても面倒で厄介。これが現実で事実です。だから不幸にも知り合ってしまったら・そういう人物だと分かったら、距離を置く、関わらないのが最善です。まとわりつかれたり、関わってこようとしたら、フェイドアウト。それでも近づかれたら、最終的に、はっきり断る、切る必要がある。その悪縁を。これができないと、やはり不幸なままなのだと思います。それと、加害側は自身のお子さんになんて言って育ててる・教育しているのかなと不思議に思います(いじめをしないように、人のいやがることはしたらだめ、ないことないことを言って人を貶めないように等、これらすべて、どの口が言う、になるから。加害側自身がしていることをお子さんにしないようにといっても説得力ゼロです)。仇討ちを公的に認められてる世の中に生きていても、仇討ちできない武士がいる。でも、幸せに生き、満足し、カタルシスも感じて生きていきたいし、その権利もある。どうしたらいいか。宗左はそれを考えた。考えて生きている。これをおさえが言ってくれたのだと思います^^聡明でないとできることじゃなく、実際難しいとは思いますが、理不尽にひどい目に合い、仇討ちもしないのであれば、こうするしか方法がない。頭を使って考えるのが必要。その場合、本人以外が、こっちにしろあっちにしろと強制することはできないし、その権限は誰にもない。カタルシスを感じながら、マイナスをプラスに変えて生きる。餅にしていく。その際、誰にも、まして加害側が、干渉する権利も筋合いもなく、本人が主体性やポリシーを持って生きること、が必要かつ大事だと思います。よくない惰性や悪に引きずられないで。悪人にも友人はいて、いいことをしたりもする。たしかに、悪人には友多しということわざもあるように、クズと言われる人にも友人はいて、友人が多い場合もあります。職務をまっとうするのは当然ですがそれをことさらに強調することでいい人ぶったり、寄付するかそれに準ずる行動、もしくは他人を応援したり紹介したりする発信等でいい人ぶる場合もある。けれどそれは本当に友人なのかを考える。先のことわざでいう友とはいい意味のそれではなく、同調する同じ穴の狢、民度の低い集まりや関わりを示している。そのことかもしれないし、いいこと、も、自分上げの手段や悪事を帳消しにしたくてしている場合、純粋な、人に賞賛されたり民度の高い方々から共感を得られるいいこと、ではない。そもそも、いじめや誹謗中傷、いやがらせができる時点で悪人です。どんないいことをしてそれをどれだけ示しても、悪事の言い訳にはならず、いい人の証明にもならない。友人の多寡や善行以前の話です。悪人=敵を敵にまわせば面倒で厄介だからと逃げても、味方になったところで面倒で厄介なのは同じだと気づけないまま、悪に近寄り迎合するのではなく、正義や愛する者に近寄り、善への親和性を持って生きる。これが本当の幸せで満足なのだと思います。