*記事タイトルから敬称略させて頂いてます*私は特定の誰かのファンになったことはないです。好きな俳優さんも男女いますが、出演作をすべて必ず観ることもないし、スノーマンも全体がいいというか、言ってみれば箱推しですし、入れ込みまくって散財ということもしたことがない(それも楽しくていいなーと思います)。誰かを推すファンの方々の熱い推し愛・それを語ってるのを聞く(読む)のはめちゃ好きです^^数年前からアイドル、それも秀樹とひろみ、百恵ちゃんのすごさと魅力のとりことなり(ここでも個人というよりまとめて・アイドルとしての存在などが好きってことです)、一部、直接会った人に話していたのですが、面白いと言ってもらえることが多いので、文章にしてみました。以前書いておいたものをアップします。新御三家もだし、その他当時活躍されてたアイドルの皆さん大勢おられますが、私がぐっときた・心に響く人が、秀樹・ひろみ・百恵、のお三方なので、この方々のことばかりになる&熱くなる、ことを、どうぞご了承ください^^ファン歴の長いお姉さま方には遠く及びませんが(皆さんご存知のことばかりだと思いますが)、ご本人の書かれたものや談話等をもとに、独断と私の情熱で書いているものです。あたたかく優しく、楽しんでみてくださるとありがたく、幸いです。今回百恵ちゃんのことについては触れていませんが、また書けたら書きたいです。すぐのアップを期待せず、待つともなく、な感じでいてくださると嬉しいです。
『新御三家にみる男性アイドルの系譜とはじまり』
・新御三家登場の前に
本編の前段階として、これを簡単に説明します。野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ(敬称略させて頂きます。以下同じ)が出てくる前はGS(グループサウンズ)全盛の時代。女性にキャーキャー言われるアイドル的存在と、海外の影響を受け独自の音楽を追求してた存在が一緒になった感じ。ジュリーがいたグループ、マチャアキやムッシュかまやつがいたグループ、ショーケンがいたグループなどがしのぎを削り、人気もあって。布施明やにしきのあきらもいたりで、歌唱性を前に出す歌手もいました。ドラマ「水戸黄門」にも出演していたあおい輝彦はもともとアイドルで、その後に出たのが郷ひろみのお兄さん分であるフォーリーブス。フォーリーブスはコーラスの美しさに定評があり、GSは出演NGだった某局にも出演できた存在です。このように、歌唱性を前面に出す歌手以外、グループ活動するスターたちが主体の時代があり、人気を誇っていたものの、それぞれの方向性のちがいから解散。タレントや俳優、ソロで活動する人もいました。ここから新御三家の歴史がスタートします。
・新御三家登場
最初は演歌でデビューした野口五郎はヒットしなくて、翌年デビューする西城秀樹は、住み込みで厳しいレッスンを続ける中、デビュー曲が決まり、喜んでいました。がそれは、筒美先生がある人のためにかいてた曲のおさがり。歌番組に出ることになった西城秀樹が出番を待っていたら、あるGSの人にこう言われます。秀樹のデビュー曲は自分にかいてもらった曲だけど気に入らないからボツにしたのだ、と。それを聞いて秀樹はショックを受けます。この曲は、爽やか系でかわいらしく、当時まだあどけない少年だった秀樹のビジュにも合っていたものの、売り上げベストテンにも入らない状態。数か月後にデビューしたのが郷ひろみ。デビュー曲はひろみの中世的なイメージに合致したもので、これまでにない新鮮さもあってかベストテン入り。GSが解散した後、女性が入れ込む存在もいなくなった、ところに、かわいらしい容姿で王子様的なひろみがちょうどぴったりはまったのかなと。新時代の男性アイドルとはどういうものか。誰にもまだ分からない、確立されていない。ここから各自(+その陣営)が模索、試行錯誤していきます。1972-1974年は新御三家にとって特に重要かつ大きな数年。五郎は演歌路線じゃなくなったのと(ポップスに変更)、歌唱性を前面に出す方向にしたものの、まだヒットは出ない。秀樹も年上のにしきのあきら、森田健作路線というか、爽やか&青春ものを出して、いい手ごたえはあるものの今ひとつ。一方ひろみは独自で、歌唱性というより(もちろんうまいけど)GSの担っていたアイドル路線を継承&ポップな感じでベストテンの中でもさらに順位を上げる。ここまでが1972年。1972年末~1973年初めにかけて(当時の歌手は3か月に1枚というペースで曲をリリースしていました)、秀樹は徐々に順位を上げます。編曲でゴージャスなアレンジがなされ、それが秀樹の個性・持ち味に合致していて、今後に続く片鱗を感じます。ただ、まだ方向性は定まっていない印象。ここで一足先に五郎がGS+歌唱性をアピールできる曲でアイドル性も獲得し、ついにベストテン入りを果たしたところで、秀樹が1973年5月に発売した曲。ここからです^^パンチがあるイントロ、コール&レスポンスを取り入れ、秀樹の声・個性に合っている編曲の効果もあり、後につながる秀樹の基本スタイルがここで確立✨秀樹も無事ベストテン入りし、ここで三者が並び、いつ誰が最初に一位をとるのか、という状態。競い合うように曲を発表していく。決着はこの年につきます。最初に1位をとったのは、一番最後にベストテン入りした秀樹でした✨ただ、かなりの接戦。この後に出した曲でひろみがなんと2位(初)という好成績、五郎が3位に(これも初)。この流れを受けて、5月ベストテン入り6位だった秀樹が9月に出した曲が、ついに1位を獲得します✨作詞作曲はZUZUさま(安井かずみ)、馬飼野康二コンビ。安井かずみ先生は数々のヒット曲の作詞を手掛ける作詞家。馬飼野(弟)先生も秀樹のスタイル確立の上で欠かせない重要な役割を果たしてくれたかたで、秀樹の歌唱力と魅力がこれでもかと出ている、それを感じさせる名曲です。紅白出場は決まりかと思われたのですが、この年は秀樹だけ出場できず。ただ、これだけの魅力と売り上げがあるのと、歌唱力が認められ、デビュー2年目の新人アイドルの秀樹はレコード大賞歌唱賞を受賞します(快挙)✨ここまでが1973年。濃いです。余談ですが、秀樹が1位をとった後の五郎の曲は馬飼野(兄)先生が作曲していてここは兄弟、筒美先生はひろみにも五郎にも曲を提供してて、同じ人がライバル二人に曲を作る、という。秀樹のデビュー曲も筒美先生でした。当時の戦略や試行錯誤、その結果や影響が、歌手本人だけでなく、まわりの陣営にも及んでいて、熾烈な争いになっていたことが分かります。1974年がさらに濃い。1973年末に発売された曲(同日発売)でひろみと秀樹が2位と1位。人気と実力が極まって迎えた1974年。阿久悠・筒美先生コンビの曲で五郎が7位。2月に秀樹が出したのが、マイクアクションでも皆を魅了したあの曲🌹編曲は馬飼野(弟)先生。3位。当時、演歌やニューミュージック系で強い曲が出ていたのでこの順位。この次のひろみの曲が可愛い🌸🐝これが3位。五郎が続き、秀樹が5月に出したのが、またコール&レスポンスで有名なノリのいいあの曲。これも作詞作曲ZUZU&馬飼野(弟)コンビで2位。演歌が売れてたので。1位ではなかったものの、ここで秀樹スタイル確立、確定✨🌹のマイクアクションで男性ファンも一気に獲得。秀樹の人気沸騰&爆発です✨この後でひろみが順位を少し落としたり、五郎の曲作りを実のお兄さんが担当するなど転機になる動きもありつつ、8月、秀樹のあの名曲・代表曲が発売されます(B’zがジャケ写でオマージュしてると話題になってました)。秀樹はこの年に自分の原型と言えるパターンとスタイルを確立したんですね。翌月にひろみが発売した曲(これはドラマの主題歌)はZUZU&筒美先生コンビ作でひろみ念願の初1位を獲得。これもひろみの代表曲です。10月に五郎が出した曲が1位を獲得(これも初)。12月に秀樹はレコード大賞歌唱賞を受賞(2年連続)。そして新御三家がついに三人そろって紅白出場、という年が1974年です。この年も濃い。1972-1974に新御三家は大活躍のスタートとなり、男性アイドルの個性と位置、地位をも確立、確定した、と言えるのかなと。
・それぞれの個性と魅力
作詞作曲の先生方の尽力もあり、それに応え花開く形で、それぞれの持つ個性やポテンシャルを発揮していくようになっていきます。五郎はビブラートを多用し歌唱性をアピって聴かせる曲を歌う歌手として、秀樹はバリバリのロックスターとアイドルを兼務するという世界にも例をみない存在として、ひろみはその声とキャラによって浮世離れしてるようなあえて血肉を感じさせない生生しくない個性で様々な表現を可能にした存在として、歌い、演じ、活動・活躍していきます。。✨