撮影って面白い。
被写体と撮影者の2人きり、
ということもあれば、
助手や見学の人がいたり、
賑やかな感じで撮ることもある。
私の場合、
被写体が食べ物などのモノであれば、
ひとりでの撮影になるし、人物なら
2人きり、もしくは外野がいたり、
はたまた公共の場なら、
知らない人々が沢山いる中での撮影
になる。
それぞれのシチュエーションで、
写る雰囲気もまた違ってくるし、
2人きりであれば、お互いの気持ちの
交流は欠かせない。
で、だ。
作品作りとしての撮影の場合。
これは被写体と撮影者が最小単位で、
ここにもしかしたら誰かが入ることも
あるかもしれない。
でも、
もとめる作品の純度を高めたい時、
私だったらどうか・・・。
被写体と自分の2人きりがいいな、
と思った。
ヌードじゃないけど、
精神的に何もまとわず、
究極的なストイックさで、その場の
空気をも研ぎ澄まして撮りたい、
と思う時、被写体と撮影者以外って、
いらない気がするのだ。
*ここで言っているのは、あくまで
自分の自由な裁量で出来る場合。
ある女優さん(故人)が
”最も信頼し、お互いの表現や感性が、
何も言わずとも通じ合っていた
監督さんが亡くなった時、
精神的には殉死した気持ちで、
もう女優をする気もなくなった”
という内容のことを言われていたのが
心に残っている。
ヘンな意味や恋愛とかじゃなくても、
表現することにおいては、時として、
2人だけの世界、水も漏らさぬ仲、
というのはあるんだと思っている。
そこに割って入るのは野暮な気がする。
もちろん誰でもいい訳じゃない。
やはりお互いにとって特別な存在が
こういう2人になれるのだろう。
そんな2人から求められない限り、
素晴らしい作品が生み出されるのを
その場ではないところで、私なら
静かに待っていたい。
きっと新しくてまだ見たことのない
素敵な作品が生まれるのだろう、と。
多くの人々と同じように、
外野で楽しみにしていたらいいのでは、
と思うのだ。
その人達が大切にしているもの、
世界観などを同じように大切に思う、
だから一歩引く、邪魔しない、
察する ということも、
思いやりなのではないか。と感じる。
できたら粋に生きたいものだ。
・・と、うっかり&おっちょこちょいで
いつも笑われている私は思う(笑)