ポンコツとコンプレックス ~自分の中の弱さを愛おしむ~

ド近眼です^^

私は基本ポンコツだ。

興味あることにしか集中できないし、
言われたこともわりとすぐ忘れるし、
おっちょこちょいで、やらかす。

もうこれがいやでいやで。

本人的にはちゃんとしているつもり。
だけどねー、やらかすんですよ。

仕事の時は、
不思議で有り難いことに
きちんと出来ている(当たり前か)。
こちらはそうでないと
信用に関わるし、最優先。
・・と自分でも意識、無意識、両方で
思えているのだろう。
そして、表現活動をしている時は、
自分で自分を信じられている。

でもそれ以外が、余りにもポンコツで
トホホだ。

何かしらやらかしてしまい、
その度に愛ある皆さんに助けられて、
今がある。

——–

コンプレックスは主に顔や体のこと。
すごくたくさんある、というか
ほぼ全部。だった。

なにもかもが見るたびに「嗚呼・・」
とため息が出るほど、
自分の体のパーツながら、苦手だった。

事実は事実として、目の前にある。
その事実を、動かしがたい現実を、
いやがっていたのだ。

でもね、
自分でもこんな・・と思う私を
好きになってくれる人がいる。

童顔を可愛いと言ってくれる。
目が綺麗、背が高い方がいい、
細かすぎずのんびりしている性格が
いい、などなど。

そう言われて、改めて鏡を見てみる。

そっかー、
目は大きくないかもしれないけど
キラキラしていて綺麗なのか。

目鼻立ちがうすくて童顔なのが好み、
という人もいるのか。

おでこを思い切って出したら、
友達も初めて会う人も「いい!」と
言ってくれた。

人に言われたことから、
自分を見つめ直す。

すると、
あんなにいやだった自分の顔を、
別の視点から見られるようになる。

私は食いしん坊だけど、
基本が小食で、苦手な食材もあり、
体調によっては、
がつがつ沢山食べられない時も多く、
それもコンプレックスだった。

給食の時は、
ほこりだらけの教室に残って
半泣きになりつつ食べていたし、

みんなと一緒に食事していても
ひとりだけ食べるのが遅く、
最後はもう、
味も何も分からずかっこむ、
ということもよくあった。

注文したあんみつを食べきれず、
もじもじしていたら、
「食べられないなら食べるよ、
いい?」と言って全部食べてくれたり、

反対に、自分のは全部食べちゃって、
でも相手のがおいしそうだなと思って
じっと見ていたら 「食べていいよ」と
差し出してくれたり。

一貫性がなく、
その時の気分や体調で食べたかったり、
食べたくなかったりという私のことも、
ニコニコして、それでいいと
受け入れてくれた人がいる。

きちんとできず、
どうしても抜けているおおざっぱさを、
大らかと言って好きになってくれた人も。

——-

事実を見るにあたり、視点はいろいろ。
そしてその視点、
どのような解釈をするかで変わる。

そのことに気づけた。

ここがいや、と思っていた部分を
ここがいい、と言ってくれる。

そのことに救われた。

と同時に、
自分の弱みを愛されることって
こんなにも嬉しく、満たされるのだな、
と知った。

ポンコツとコンプレックス、
どちらも私が隠したくて必死で隠し、
見たくなくて、あえて見ないように
していた、弱い部分だ。

でも、それを愛してくれる人がいる。
愛すべきところなのだと教えてくれる。

そこから逆説的に自分の弱さを認め、
愛おしむ気持ちが生まれてきた。

自分の中の弱さ、
欠損していると思われる部分、
それがその人らしさであり、
個性ともいえるのではないか。

だって私もそうだから。

相手の弱さ、
どうしてもできない、認めたくない
と思っているであろう、その部分。
そこも含めて、
どうしようもなく愛おしい。

まだ知らない部分もある。
でもそれだってきっと好きだ。

甘えてほしいなー。
とんでもなく思いきり愛したいから。
(ポンコツだけどw)
よしよしヾ(・ω・`)して、
「大丈夫だよー^^」って言うよ。
何度でもね。

寄りかかるのではなく、
お互いの弱さを見せあい、
認めあって助け合う。頼り合う。

きっとこれでいい、
これがいい、のだと思う。

まずは自分の弱さを認める。
隠さず出す。愛おしむ。

そうすることで、
そこを同じように愛おしみ、
助けてくれる人があらわれる。

もうそばにいるかもしれない。
心のすぐそばに。

だから大丈夫。大丈夫。。