無理をしているということ ~ありのままの自分~

美しいものが好きです。
それは自然も、芸術も、人も。

人なら、考え方や生き方など
外見だけでなく全般に渡って、
自分が「美しい」と感じるもの、
に惹かれますし、憧れますし、
そうありたい、と思います。

自分が感じることなので、
人から見てどうか分からないのと、
こういうことは、人に言う話でも
ないしなーと、話すこともしない。

だから、
マイナスの感情があるとき、
悩んでいるとき、
苦しいと感じるときは
それがある程度解決してから、
人に会います。

どんなに感情が揺さぶられても、
どうにかして自力で解消し、
それを原動力に表現したくて。

みっともない、見苦しい、と
思うものを出したくなくて。

—–

でも、
それが間違っていたのかも、
と思うことがありました。
誤解されたのかな、と。

私はそのまま出すより
「美しい」と思って、
自分の中で消化、昇華して
表現しました。

冷静に客観視して。
だけど・・・。

考えてみたら、
私の想いが伝わらなくて
当然かもしれません。

表現という「形」「作品」に
したものであり、
(気持ちはノンフィクションでも、
作品は客観視して作るので・・・)

自分の中の苦しみや葛藤を、
途中経過を、見せたくなくて、
その表現にしたからです。

今回の件で分かったのは、
自分が無理をしていたことと、
自分の気持ちを理解してほしいと
思っていたこと。本当は、
誰に泣き言を言いたかったのか。
(ちょっと恥ずかしいですが)

でもそれはできない。

自分の感情は
自分でどうにかするしかなくて、
他の人に預けることはできない。

拒絶された経験があると怖いのと、
ずうずうしい気がするし、
相手に申し訳ないです。

で、いろんな感情、考えを
出すことをすっとばした結果、
最後に出た結論だけにした結果、
え!?と・・・。

とらえ方は受け手の自由で
どうすることもできない
としても。

—–

先日、身内に言われたんです。
私のことを
「鋭いけど、ニブい。
分かってて冷静に見れているのに。
人を見たら敵と思って疑うこと。
簡単に人を信じてはいけない。
鋭い洞察力だけを見た人からは、
すごい人のように思われたり、
賢く立ち回れると思われるかも
しれないけど、本当はそういうの
全然できないよね。」と。
そうだなと思って何も言えず。

バ△と紙一重というか。
洞察力があっても、
賢い防御や攻撃性がなかったら、
意味ないんですよね。だから、
おじさんや同性の方々から・・・。

少し話がそれましたが、
何が言いたいかというと、

「美しい」と思うことを
重要視しすぎて
「美しい」と思う自分だけを見せ、
相手にどう思われようと平気なら、
自分には自然だからいいけれど、

誤解されたと思って
悲しくなるくらいなら、もう
それは無理をしているのだから、
本当の自分、美しくない自分を
出してもいいんじゃないか、
ということ。
それが本当の自分ですもんね。

受け入れられなかったり、
バカだなと思われたとしても、
仕方のないこと。
それが自分だから。
(怖いし、勇気いりますけど)

自分は素直だと思っていましたが、
まだまだやせ我慢をしてたと
気づきました。

—–

怖れや不安を手放し、
ありのままの自分を表現してみる。
悩みや葛藤もそのまま。

でないと、どういう経緯で
結果にたどりついたかが
見た人に伝わらず、
誤解されることもある。

未熟な私も私。
どれだけカッコわるくても、
正直に出さないと伝わらない
こともある。

同時に、
どんな自分でも自分が受け入れる、
味方になる、信じる。
そしてその後で相手を信じてみる。

そういう過程を少しずつ経験し、
習慣化することが大事なのかもなと
思いました。

「美しい」かどうかを気にして、
マイナス感情すら洗練されてないと
表現してはいけないと、
なにもかもを研ぎ澄ますあまり、
本当の自分の気持ちとは違うことが
伝わるのって・・・。

必死になって辿り着いた境地でも、
そうは思われなくて悲しいなら、
やめよう、ってことですよね。

これは、
自分以外の誰も望んでいないこと
かもしれない、と思いました。

あ、究極、
自分も望んでないです。
今気づいたけど、こうして考えると
「誰得?」かも。

弱っているときは弱っている、と、
しんどいときはしんどい、と、
言えるようになりたい、いや、なる。

でもどうやって?
言っても、やっぱりひとりで、
いや、・・・。
(試行錯誤するしかないのかな)

答え出ずですが
このまま終わります。